2017/12/13

人間文化学科のフィールドワーク「地域文化研修」―村上水軍の歴史を知る!

学長室ブログメンバー、人間文化学科のSです。こんにちは。今回は、備後地域を中心にフィールドワークを行う課外研修「地域文化研修」についてお伝えします。今年は、11月26日に実施されました。以下、青木美保教授による報告です。
_____________________________________ 

今回、第一回フィールドワーク(青木ゼミのフィールドワークに学生有志が参加)においては、因島、大三島の水軍の遺蹟と、井伏鱒二が滞在した因島の土井医院などの文学遺跡を見学、第二回(人間文化学科地域文化研修)は能島(のしま)村上氏の遺蹟と、尾道から生口島、伯方島、因島、能島、大島と村上海賊の島城の跡を辿りました。

二回とも、備陽史探訪の会会長の田口義之先生の実地の講義により、当時の地域史の見取り図が頭の中に出来あがりました。二回のフィールドワークによって、芸予諸島と周辺の海域で独自の活動を行った「村上海賊」の歴史の全貌を知ることができました。
村上水軍博物館で展示見学
1,中世以前、「海賊衆」と呼ばれる海の民がいた。彼らは芸予諸島を中心に、瀬戸内海航路の水先案内を行うとともに、通行証を発行して通行料をとったり、交易を行ったりして生活していた。

2,島嶼部に跡が残る海賊の城は、14~15世紀に相次いで建築された。(以下、田中謙・大上幹広(村上水軍博物館学芸員著『村上海賊の城』村上海賊魅力発信推進協議会編 による)
 ・島の城、岬(鼻)の城、海を望む山城など様々な立地の城がある。
 ・とりわけ小島全体を城郭化したタイプは全国的にも特異である。
 ・海岸部に最大の特徴がある。
  ①船だまり(船かくし)がある。
  ②干満に応じた船の着岸や繋留用の施設(岩礁ピット)を整備している。
  ③海岸をめぐる通路(海賊テラス)や多目的ヤード(海岸の埋め立て)を整備している。
 ・島の対岸には「水場」がある。
 ・土塁や堀切といった城の防御施設は簡素であり、海に対して開放的な構造である。
 ・海賊の舞台となっていることは文献でわかるが、主戦場は海上であった可能性がある。
 ・生活の道具が豊富に出土し、とくに能島城の郭では何度も建て替えられた建物群が発見された。
 ・中国などで生産された陶磁器や、備前焼など国内の流通品が多く出土する。
 ・村上海賊(島の城)は、合戦の備えである以上に、平時の海上活動の場であり生活の場であった。
  
3,戦国時代(応仁の乱・1467年~室町幕府滅亡・1568年)になると、近隣の大名との関係を強め、地域の権力者の勢力範囲に取り込まれていった。元々、芸予諸島は小早川家の領地であり、隆景はこの地域の海賊衆を「水軍」として傘下に統合し、それが村上水軍と呼ばれた。

4,豊臣秀吉が天下をとると「海賊禁止令」が出され、水軍は陸地に移動させられ、海賊の城は16世紀末頃に、近世に城郭化された甘崎城を例外として、能島城など多くが廃城となったと考えられる。

5,近世には、大名の船手組として、海上の仕事に携わった。塩飽諸島の水軍は幕府お抱えの船手組となり、朝鮮通信使の護衛などに当たった。毛利家に仕えた水軍は萩藩の船手組となった。

今回のフィールドワークでは、しまなみ海道をバスでめぐり、その沿線の海賊城を遠望するとともに、能島城を眼下に見ながら、大島の水軍関係遺跡群を実地踏査しました。

伯方島と大島の間にある海の難所、宮ノ窪瀬戸に接する小島である能島には、島全体を城郭設備とする能島城跡があります。近年の発掘調査によって、14世紀中ごろからこの地での生活が始まったことがわかったとのことです。ここは、実際に海賊衆が寝泊りをする生活の場であったとのことで、硯や天目茶碗、香炉など文化や教養を示す出土品も出ていると資料にあります。
村上水軍分布図(環境省HP)
対岸の大島では、彼らの陸の居館があったと思われる場所を訪れました。ここには、「幸賀屋敷跡」(こうがやしきあと)という石碑が立ち、その下には井戸の跡が遺されていました。「幸賀」は、「陸(くが)」の意でもあるとのことでした。
幸賀屋敷跡見学
さらに、前期村上氏最後の村上義弘の墓がある高龍寺にも立ち寄りました。墓は寺の裏山の中腹にありました。立派な宝篋印塔(ほうきょういんとう)で、周囲はきれいに掃き清められ、両側に添えられた石筒に白菊が備えられており、地域の人たちが大事に祀っていることが分りました。ここが正しく前期村上氏の終焉の地でありました。
高龍寺門前で集合写真
村上義弘の墓前で
昨年度からのフィールドワークで多くの宝篋印塔を見学しましたが、いずれも人々が今も大事に守っている様子が見られ、感慨深いものがありました。宝篋印塔は元来経を収める仏塔であったようですが、後にそこに権力者の遺骨や遺物を納めるようになり墓の意味を持つようになったとのことです。

能島村上氏は、三島村上氏(因島村上、来島(くるしま)村上、能島村上)の中で最も強大な勢力を持つと言われた水軍で、戦国時代に因島村上氏が毛利氏に、来島村上氏が伊予河野氏についたのに対し、能島村上氏は独立を保ちました。秀吉が傘下に下ることを命じた際も、これを拒否したとのことです。近年、新資料が発見され、村上水軍の主要家系の一つ、能島(のしま)村上家の十七代当主、村上文朗(ふみお)氏=山口県周防大島町=方で、萩藩主が同家当主に海上警護役の職務継承を認めた江戸期の古文書など未調査の史料約600点が見つかったとのことです。江戸期には、萩藩の船手組として生き延びたことが実証されています。

今回、村上水軍を率いた小早川隆景の天正7年の書簡(本年京都で発見)が、みはら歴史館で展示されているのを同時に見学しました。これは、隆景が水軍を率いて木津川口の合戦に赴いた天正4年の三年後、本能寺の変(天正10年)の3年前の、毛利と織田が対峙する緊迫した情勢を反映する書簡で、興味深いものでした。
みはら歴史館で小早川隆景の書状見学
天正7年は織田信長が中国攻めに本格的に乗り出したころで、天正6年の上月城の合戦では、織田方の羽柴秀吉が撤退したため、孤立した山中鹿助ら尼子方は毛利に攻め落とされました。まさに中国地方の国衆と織田方が激しい攻防を行っている最中であり、同年、備前宇喜多直家が毛利を裏切り、織田方に寝返ったのでした。そんな中、備中の三大山城の一つ佐井田城は、織田と毛利の攻防の最前線であり、毛利方からすれば死守すべき防波堤でした。本書状は、隆景がその佐井田城に対して、織田の攻略に備え、城の囲い板、帆筵を送って、後方支援するように家臣熊谷信直の三男玄蕃就真に指示したものです。当時、山城は後方支援「後まき」がなければ合戦に勝つことは困難であったとのことで、そこに本書状の意味はありました。当時の緊迫した情勢が推察され、織田信長の勢力に動揺する中国地方の国衆の動きが実感されました。また、信長の脅威が如何に大きなものであったか、明智光秀の反逆の意味するものの大きさに改めて深い感慨を抱きました。

いずれにしろ、海賊衆の城も、中国山地の山城も、今は兵どもが夢の跡です。特に、瀬戸内海を我が物として自由気ままに生きた海賊衆の存在は、近代の日本が失った生き方の一つを強烈に思い起こさせます。海に開かれたこの地で今一度往時の自由闊達さを取り戻したいものです。


学長から一言:昨年から本学が挙げて取り組んでいるブランディング推進のための研究プロジェクトは「瀬戸内の里山・里海学」です。。。今年度は、瀬戸内の生態系の研究が私立大学研究ブランディング事業に採択されましたが、このフィールドワークも素晴らしい「瀬戸内の里山・里海学」ですねッ!次は文系で採択を狙いましょう!!!