2017/03/14

税務会計学科の張楓准教授による「広島県議会予算特別委員会」での参考人意見発表

学長室ブログメンバーの張楓(税務会計学科准教授)です。昨年2016年3月7日に広島県議会平成28年度予算特別委員会にて、備後地区の諸大学研究者のなかではじめて参考人として御招きいただき、参考人意見を陳述させていただきましたが、このたび広島県議会ホームページでその資料が公開されましたので、その内容について、ブログをお借りして紹介させていただきます。
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広島県議会予算特別委員会で発表した参考人意見のテーマは「備後地域ものづくりのダイナミズム―「縁の下の力持ち」の百年―」でした。発表した意見そのものは、その後、拙稿「備後地域機械工業集積の100年」と拙著『備後の機械工業100年の歩み』(栄工社)の執筆に実質的に拍車をかけるものとなり、備後地域のものづくりに関する研究を大きく前進させる決定的な契機となったものでした。

2016年3月7日における広島県議会予算特別委員会における参考人意見発表は以下の通りです(所属はいずれも当時のもの)。

・木曽功 参考人(内閣官房参与)
  「国際社会で活躍できるグローバル人材の育成について」
・竹中平蔵 参考人(慶應義塾大学総合政策学部 教授) 
  「アベノミクスと日本経済の行方」
・張楓 参考人(福山大学経済学部税務会計学科 准教授) 
  「備後地域ものづくりのダイナミズム:「縁の下の力持ち」の百年」
・鹿嶋敬 参考人(男女共同参画会議議員,内閣府計画策定専門調査会会長,一般財団法人女性労働協会会長)
  「男女共同参画の視点に関する考察~女性活躍推進と男女共同参画の関連性について~」
・河村昌美 参考人(横浜市政策局共創推進室共創推進課 担当係長)
  「横浜市の公民連携(共創)の取組」

私の参考人意見発表の内容はやや長文ですが、以下の通りです(県議会リンクからの転載)。


 ◯張参考人: 初めまして、福山大学の張と申します。このたびはお招きいただきまして、心から御礼申し上げます。

 私は、1993年に来日し、留学生として日本の近代化、そして近代化における伝統産業ですとか、在来産業、今で言うと地場産業の歴史的な役割に関する研究を進めておりました。そういう中で、15年前から備後地域とかかわりを持つようになりました。そして、現在、私の研究分野は日本経済史、日本経営史、そして地域産業史です。そういう立場から、きょうは主に歴史的な観点で、地域経済の集積というものに関して、私の考え方を申し上げたいと思っております。

 日本経済の歴史としましては、2017年で開国からちょうど150年になります。日本経済を振り返ってみますと、日本の地域経済構造は、明治、大正時代、地方が日本の近代化を下支えしていました。そして、日本経済は、特に大正時代になりますと、徐々に地域経済構造が大きく変ってまいります。どういう方向に変わったかというと、皆さん御存じのとおり、中心的な構造、垂直的な分業構造、もっとはっきり申し上げますと、東京一極集中構造に向かっていくわけです。これは別に明治期からそういうふうになったわけではなく、主に大正後期以降、1920年代に入ってから東京一極集中構造に向かっていき、戦後になって、急速にそういう構造になっていくわけです。大都市においては、大企業の本社、地方都市においては、現場機能としての工場が分散して立地するというものでした。

 そういう中で、とりわけ戦後に言われてきたのは、そういう階層的な地域経済システムや経済構造の中で、特に地方経済の断片的な経済化というものが非常に深刻化してくるということです。近年、安倍政権で地方創生を打ち出されており、新しい言葉のように聞こえますが、実は戦後からずっと取り組まれてきた古い問題で、なかなか改善は難しいというのが現状なのです。

 そうした日本の地域経済構造を踏まえて、きょうは主に備後地域に着目して、備後地域のものづくりのダイナミズムについて、主に私の歴史研究の成果を紹介しながら話を進めさせていただきます。

 備後地域のものづくりのダイナミズムに注目すること、近年私が申し上げている「備後モデル」の意義について申し上げますと、先ほどお話ししました東京一極集中の中で、いわゆる地方経済、地域経済は、他律性が非常に強く志向されているわけです。これは戦後からずっとですが、そういう中にあっても、備後地域では自律性が失われていないということなのです。自律性を失わず、持続的なイノベーションを志向している地域企業は、非常に高い革新性を持っているわけです。そして、それを基盤に、独自の地域産業集積が形成されてきて、非常にダイナミックな展開を見せてきています。これは、ここ10年、20年の話ではなく、戦前からの動きなのです。

 私は100年スパンで分析しておりまして、基本的に備後地域は明治末期からずっとこういう持続的なイノベーションが続いておりました。そして、そこには高い革新性と独自性の基盤があったわけです。

 では、ここで他律性について申し上げますと、例えば、千葉経済大学の安東誠一教授は、戦後の日本地域経済構造について、「発展なき成長」という言葉であらわしています。他律性に対する強い志向というものは、備後地域も免れるものではなく、他律性に対する強い志向が見られます。その典型的な例として挙げられるのが、日本鋼管の現在の福山進出です。

 資料の出荷額の表を見ていただきますと、1960年にはまだ日本鋼管はなかったのですが、1975年になりますと、日本鋼管福山製鉄所(現、JFEスチール西日本製鉄所福山地区)を中心とする鉄鋼業によって出荷額が一気に高まり、15年間で122倍に拡大していくわけです。これは全て日本鋼管の影響です。そして、1975年から2013年の38年間では1.4倍しか拡大していないわけです。

 いずれにしても、日本鋼管を中心とする戦後の量的拡大の追求、これは別に日本鋼管を批判しているわけではなく、地方経済が日本鋼管に依存しているところに大きな問題があるということです。

 もう一つは、日本鋼管は、地元企業とのつながりが極めて弱いということなのです。そこにも大きな問題があります。例えば、もう古い話になりますが、日本鋼管の所在地である福山市が1984年に財政危機に陥りました。多分皆さん御存じだと思いますが、1984年度に財政健全化5カ年計画を打ち出しました。そこから徐々に回復に向かっていったのですが、そこで打ち出された政策は、この日本鋼管への依存から脱却して、経済構造、地域構造をつくり直すというものでした。残念ながら脱却できていないというのが現状なのですが、これは、また後で申し上げますが、こういう他律性に対する強い志向が続く中で、どこを見て地域経済の政策を実施するかといいますと、この自律性の部分をより重視するということです。この自律性の部分は、先ほど申し上げたように、地域企業の持続的なイノベーションへの志向と高い革新性を基盤とする独自の地域産業集積の形成が見られたということです。

 私は、こういう独自の地域産業集積を「縁の下の力持ちの集積」と名づけたいと思います。これはどういう意味かといいますと、備後地域の企業は知名度が極めて低いのです。若い層も含めです。例えば、私は福山大学で教鞭をとっているのですが、学生に聞いても日本鋼管の名前しか出てこないわけです。そんなことではだめです。

 詳細は後で申し上げますが、私はフィールドワークを重要視しておりまして、地元の中小企業や大企業100社以上を回らせていただいております。そこで感じたのが、縁の下の力持ちの集積という言葉が一番適切なのではないかということであります。

 つまり、この地域の多くの企業は、明治・大正以降の大衆消費社会をずっと下支えしてきたのです。そして、グローバル時代に入ってからも、グローバル経済を下支えしているにもかかわらず、ほとんど知られていない。そういった知名度の低さを逆手にとってあえてこの名前をつけたわけです。

 例えば、下の表を見ていただきますと、これは集積の一般的な指標の一つとしてよく使われる従業員数特化係数です。1.01あるいはもうちょっと高目に見ていきますと1.1以上ですが、余り詳細に御紹介できないのですけれども、1975年以降になりますと鉄鋼がずっと第1位なのです。

 では、日本鋼管しかないのかというと、実はそうではないのです。例えば、日本鋼管が進出する前の1956年から、造船業を中心とする輸送用機械が、これは今でもあって、ずっとランキングには出てくるわけです。それから衣服、アパレル関係、それからもう一つは木材、家具、これは府中を中心とする高級婚礼家具のことです。そして、もう一つは機械関係です。実は、このように多様な地域産業が登場してきているということなのです。残念ながら、こういう多様性が全て日本鋼管の背後に隠れてしまって、非常に見えづらい構造になってしまっています。したがって、そういう意味からも、「縁の下の力持ち」という言葉を使っております。

 15年ぐらい私が取り組んでいる研究を御紹介申し上げます。木工それから機械工業の2つにつきまして、簡単に御紹介させていただきます。

 まず、木工産業のダイナミックな集積ですが、この研究の集大成として資料の下に図がありますが、基本的に備後地域の木工産業というのは、松永の塩業から副次的に発生したものなのです。そこから下駄産業が始まって、そして、明治後期から戦後の昭和30年代までずっと伸びてきたわけです。これらは大衆消費社会をずっと下支えしてきたという意味でも非常に重要なのです。

 ここで注目していただきたいのは、下駄産業において育成されてきた関連産業です。この関連産業とは何かというと、木材加工、製材加工、それから、木工機械メーカーでして、全国でも非常に有名なメーカーが次から次へと出てきます。

 例えば、正木鉄工、この会社は明治後期の創業なのですが、主に松永の下駄産業に機械を供給しております。それから、クラステックという会社もそうです。それから、シーケイエス・チューキ、これは昔の中国機械製作所です。もう一つ有名なのは桑原製作所です。残念ながらこの2つの会社は、バブル崩壊後に倒産しました。倒産はしたのですけれども、シーケイエス・チューキは、福山熱煉工業が見事に再建しました。それから、桑原製作所に関しては、もともとここの下請だった企業が特許等の全ての権利を買い取りまして、これが今の西丸工業です。こういうふうに、下駄産業にかかわる産業が、後の機械工業につながっていきます。

 昭和30年をピークに下駄産業が衰退していくのですけれども、そこから台頭してきたのは、府中の高級婚礼家具でした。先ほど申し上げた機械工業のメーカーも、下駄産業が衰退していく中で、府中の家具産業に向けてつくるようになっていきます。
 
 もちろん、府中だけではなく全国に向けて、明治、大正、昭和の戦前期から高度成長期、安定成長期にかけて、これは備後地域に限ったものではなく、木工産業が、広島県、福岡県、大分県、静岡県、徳島県を巻き込む形でダイナミックに展開していったという部分に、非常に大きな歴史的な意味があるということなのです。そして、現在でも大きな資産や経営資源が残っている。バブル崩壊以降、集積規模は大きく縮小しましたけれども、経営資源は全て健在なのです。この転換についてはまた後で申し上げます。

 次は、機械工業です。機械工業に関しては、オンリーワン、ナンバーワン企業が注目されていますけれども、オンリーワン、ナンバーワン企業が備後地域で創業、立地していることには関心が向けられていないのです。そうなると、地域経済の底上げが実は非常に難しいということなのです。

 資料の下の表を見ていただきますと、備後地域の知名度が低いのは、備後地域のものづくりがだめだということなのか、それとも、ただ不当に扱われてきたのかということなのです。長岡、諏訪、浜松地域と比較しながら見ていただきますと、1960~2006年の間に事業所数、従業員数、製品出荷額、付加価値額の全てが増加しています。機械工業①と機械工業②に分けているのは、日本鋼管を中心とする鉄鋼業による影響を除外して、客観視したいということです。そこで、機械工業の右側(鉄鋼業を除外した機械工業②)を見ていただきたいのですが、事業所数、従業員数、製品出荷額、付加価値額が増加しているわけです。

 そして、最も注目したいのは付加価値生産性です。いわゆる労働生産性が極めて高いのです。とりわけ1975年以降、地方の機械工業地帯、長岡、諏訪、浜松を大きく凌駕しているというところに大きな意味があるわけです。それから、出荷額に占める付加価値額の比率ですが、これも非常に高い水準なのです。これは、精密機械を中心とする諏訪地方と並ぶ非常に高い水準を見せているわけですが、備後地域は知名度が低いことから、こういう非常にすばらしいところが余り強調されないことは極めて残念です。

 では、備後地域の機械工業が著しく成長してきた要因はどこにあるのかということなのですが、日本鋼管を頂点とする企業城下町の論理、あるいは日本鋼管の誘致のみにその原因を求めることはできないということなのです。どこに原因があるのかというと、地域中小企業、中堅企業を中心とする労働生産性の向上と高付加価値製品の創出に対する長期的・持続的な取り組みを支えている、地元で独自に形成されたメカニズムが強く作用してきたという部分に原因を求める必要があるということが示唆されているわけです。

 どういうメカニズムかというと、「丘陵型分業構造」という言葉なのですが、その前にまず5ページを見ていただくと、これは立地の変化をあらわしたものです。主に福山地区の立地の変化ですが、私は先ほどから申し上げているように100年スパンで見てきているのですが、これは1909~2010年にかけての100年間です。その間の立地の変化なのですが、基本的に1950年代までは、機械・金属工場の立地の中心地は三之丸町、野上町、草戸町のあたりです。つまり、今の福山市の中心市街地です。1950年代、60年代まで工場が極めて多かったのですが、そこから徐々に分散していくわけです。どこに分散するかというと、山手町とか、千田町あるいは御幸町、箕島町や箕沖町といったところに分散していくのです。もう一つは、表の下のほうですが、1970年代になりますと東部地域は大門町とか鋼管町が急速にふえてくるわけです。その多くは、日本鋼管の関連企業の進出や創業なのです。それが現在まで続いているわけです。

 簡単に紹介しましたが、こういうふうに地域の工場が中心市街地からダイナミックに分散していきました。しかし、分散が進んだからといって、企業間関係、ネットワーク、取引関係が弱くなったかというとそうではなく、むしろ強化されていくわけです。それを支えるのは何かというと、歴史的に形成されてきた分業構造なのです。丘陵型分業構造という言葉は私が名づけたものなのですが、この分業構造という言葉がどこから来ているかというと、慶應義塾大学の渡辺幸男教授が1990年ごろに山脈構造型社会的分業構造という言葉をつくられました。資料の図を見ていただくと、従来のような完成品生産企業を頂点として、その下に、1次下請、2次下請、3次下請という、いわゆるピラミッド型の下請取引構造とは違うものなのです。つまり、頂上がたくさんあるというところに大きな特徴があるのです。

 例えば、頂上に巨大企業、大企業が位置づけられ、その下には頂点にある巨大企業、大企業に部品を供給する部品メーカーがあって、山腹部分に中小零細企業が幅広く位置づけられているわけです。とりわけ下の部分というのは、底辺産業と言われる部分なのです。この渡辺教授の構造図というのは、基本的に八ヶ岳連峰をイメージしていただけるとわかりやすいと思います。そういったものをイメージしてつくられた構造図でありますが、問題点もございまして、この構造図は京浜地区、はっきり申し上げますと大田地区を中心とした構造図なのです。したがって、この図で地方企業や地方経済を見るというのは問題なのです。地方経済、地方企業、地方の機械工業もこの構造図で捉えるとなると、全て京浜地区の一部として認識されてしまうということなのです。そうすると、地方経済の独自性はどこにあるのかということが非常に不明確になってしまいます。もう一つは、地方機械工業集積の構造的な特徴や独自性が見えにくいということです。主な問題点はこの2点です。

 備後地域を見る場合は、備後地域の地方企業、地域企業が主体であるということで、この丘陵型分業構造を申し上げました。つまり、八ヶ岳ではなくて丘陵なのです。

 考えてみますと、地域で一番大きな企業は日本鋼管ですけれども、日本鋼管は地域企業との関係が非常に弱いのです。シャープも今、非常に厳しい状況に置かれていて、従業員数は非常に少ないのですが、それでも3,000億円ぐらいの規模です。それ以外には、三菱重工三原製作所があります。結局、中心となる大企業として非常に多様な地域企業、地元企業を位置づけることができるわけです。簡単に紹介させていただきますと、ホイストやクレーンについては日本ホイスト、工作機械となると広島県内では広島地区よりも多いのです。例えば、ホーコスであったり、シギヤ精機製作所、元久保工作所やファースト技研、山陽マシン、それから福山産業などが挙げられます。大体年商で言いますと5億円から200億円ぐらいまで、丘に例えると非常に小さい丘でほとんど見えない程度のものです。200億円の丘でも、3兆円のマツダから見ると、もう全然何とも思われないし、目立ちません。もちろん日本鋼管から見ても非常に低い丘です。

 しかし、そのほかに、例えばポンプだったらテラル、印刷機械だったらリョービと三菱重工が出資した企業もあります。建設機械では北川鉄工所、平盤打抜機では、これは非常に特殊なものですが、三和製作がございます。食品機械となりますと、フジイ機械製作所や備南工業、光陽機械製作所ですが、こういった企業は、全て10億円前後の売り上げです。

 このように売り上げは高くないけれども、実は、大手企業にとって欠かせない企業なのです。先ほど申し上げた工作機械もそうですし、ポンプや印刷機もそうです。それから、農業機械となると、佐藤農機鋳造があります。木工機械では、先ほど申し上げた企業がまだ現存しています。それから半導体の搬送装置となるとローツェ、あるいは包装機械になると古川製作所があります。

 では、そういった企業は100%全部自分の企業の中でつくり上げているのかというと、実はそうではないのです。この備後地域の丘陵型分業構造の大きなダイナミズムは、まさにそこにあって、丘の中腹部分、それから丘の山腹部分には、鋳物であったり板金であったり溶接、メッキ、熱処理、塗装、鍛造、プレス、機械加工といった非常に広い裾野が広がっているわけです。これは全て明治、大正以降、徐々に形成されてきて、その上に、この丘陵型分業構造が形成されてきて、それがこの地域の多様性を支えているということなのです。

 最後に、少し視点を変えて備後地域全体の状況を俯瞰してみたいと思います。備後地域の経済を支える独自のシステム、独自の構造が歴史的に形成されてきて、それが現在どういう状況にあるのか、そして、これからどういうふうにしていくべきかということを考えてみたいと思います。

 備後地域全体の地域構造を俯瞰して見ますと、資料の下の図を見ていただくとわかりますように、全体として集積規模は縮小に向かっていて、これは当然なのですが、事業所数も従業員数も大きく減っているのですが、実は出荷額は上昇しているのです。

 ここで注目したいのは、付加価値額全体、あるいはその付加価値率です。地域を支える付加価値そのものは90年代以降急落している状態です。その最大の原因は何なのかということなのですが、先に少し付言しておきますと、長岡、諏訪、浜松と比べた資料がありましたが、これには2006年までしか出していないのですけれども、2013年について申し上げますと、備後地区の付加価値生産性額は1,030万円です。長岡地区は853万円、諏訪地区は1,187万円、浜松地区は1,416万円、全国は1,366万円で、付加価値率は、備後地区は32%です。そして、長岡地区は37%、諏訪地区52%、浜松地区は46%、全国は34%です。つまり、リーマンショック以降ずっと回復し切れていない状況なのです。主要機械工業地帯と比べても著しく低い水準にあり、全国平均も下回っているということなのです。最大の原因は福山市における付加価値額の激減にあるということです。備後地域全体出荷額の約6割を占めてきたわけですが、付加価値額は激減している現状なのです。

 そこで、どういう対策が考えられるかということですが、私は専門外なのですけれども、歴史的に蓄積された資源の観点から申し上げますと、こういった縁の下の力持ちの集積がある。しかし、それを見える化しないとだめなのです。つまり、日本鋼管などの大企業の後ろに隠れて支える存在を見える化し、さらに強化していく、例えばデータベースを構築する、あるいは研究調査、人材育成、産学官連携、これは一般論になるのですけれども、いずれにしても縁の下の力持ちの集積という産業構造そのものをもっとアピールし、見える化してさらに強化していかないと、人材は流出し、定着しないわけです。そして、創業も活発化しない、高付加価値産業も創出されないということです。さらに、グローバル展開もおくれてしまうという悪循環を食いとめるためにも、こういった「縁の下の力持ちの集積」に着目し、政策を重点的に打ち出していただきたいというのが私のお願いでございます。
 ありがとうございました。(拍手)
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以上、長文になって申し訳ありませんが、備後地域のものづくりの面白さと醍醐味がこれほど奥深いものであることを御理解いただけると幸いです。興味のある在学生、またこれから福山大学に入学する学生には私が担当する通年講義の「備後経済研究」と後期開講の「備後経済論」(企業経営者による名物講義)の受講をお勧めいたします。

備後地域における「縁の下の力持ちの集積」の見える化には、大学生や新入生であるみなさんのみなぎる力とパワーが必要不可欠であることを最後に付言します。


学長から一言:張楓准教授の熱弁。。。とてもわかりやすくて、私の理解も進みましたよ!この備後地域の人材育成を担っている福山大学としては、がんばらなくてはッ!!!