2017/03/03

人間文化学科 地域文化研修2016~中世と現代を繋ぐ史跡を訪ねて~

学長室ブログメンバー、人間文化学科のSです。こんにちは。

今回は、毎年恒例の「人間文化学科地域文化研修」の2016年度の活動についてお伝えします。以下、青木美保教授からの報告です。

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人間文化学科では、フィールドワークによって地域文化についての知見を深めています。毎回、学科の歴女・歴男がこぞって参加します。昨年度から、江戸時代以前の福山市の町を知るため、備陽史探訪の会 会長の田口義之氏を講師に招いて、中世に備後地方を掌握していた杉原家の跡、山城や特に業績のあった杉原盛重の遺した文化を訪ねています。

昨年度の神辺城に引き続き、今年度は元々の杉原家の城であった山手銀山城に登りました。麓には、弘法の名水と呼ばれる空海の開いた湧き水と宿坊があります。そこから山道を20分ほど登ると銀山城跡です。最後険しい山の斜面をよじ登ること10分、山頂にたどり着きました。その城跡は、今は備陽史探訪の会の方々によってきれいに整備され、往古の城郭の痕跡が想像できるようになっています。

山手銀山城、石垣の遺構を見学。
山頂は平らになっており、城と兵士の会所などがあったとのことで、それらしき石組みが遺されており、そこからは福山の町が一望の下に見渡せます。そこで輪になって座り、昼食をとりました。大変天気がよく、山頂の爽やかな風に吹かれながらの昼食は楽しいものでした。昼食後、田口氏の講話によって城郭の痕跡について実地に説明を受けました。攻め上る敵を陥れるために作られたつづら折れの道や、何重にも作られた曲輪、畝型竪堀、石垣の痕跡など、その防御の堅固さが想像できました。つまり、中世山城とは、実戦に備えるための砦そのものなのでした。城主の権威を示すことが中心の近世城郭とは、そこが全く異なるのだと実感できました。この銀山城も、毛利や尼子などとの実戦に使われたものだとのことです。

銀山城山頂での講話。

さて、今回のフィールドワークの目的のもう一つは、室町幕府の最後の将軍足利義昭の最後の足取りを辿ることです。信長に都を追われた義昭は最初に鞆に幕府(鞆幕府)を置きましたが、本能寺の変の直前にそこから先ず沼隈の常国寺に居を移したとのことです。フィールドワークの最初にそこを訪ねました。

常国寺を見学。

この寺は渡辺氏の建立で、日親上人の布教による日蓮宗の寺です。この寺には義昭拝領の肩衣や硯が遺されているとのことです。また、寺の裏山には義昭の供養塔とされる塔の残欠が遺されており、今も地域の人々によって守られていることがわかりました。さらに、その後義昭の居館となったといわれる津之郷町の小高い丘、御殿山を訪ねました。そこは義昭が毛利氏から寄進させた土地で、御殿があったため御殿山と名付けられているそうです。細川幽斎など都の文化人がここを訪問し、連歌を巻いたり、和歌を詠んだり、雅な文化が花開いたようです。

足利義昭供養塔(残欠)を見学。


御殿山で義昭の居館跡見学。

義昭居館跡の説明板。
田口氏の説明によれば、義昭は抜け目のない人物で、このあたりの豪族に地位を与えては巨額の金を寄進させ、将軍という立場を利用して生活したとのことです。その後、秀吉が九州征伐の際にここに立ち寄り、現在田辺寺(山手町)のある場所で双方が出会って会見し、秀吉が都に居場所を確保することで話がまとまって、義昭は都に戻ることとなりました。都で義昭は、最後まで可能な限り権勢を揮ったそうです。

田辺寺で集合写真。


今回のフィールドワークでは、教科書に書かれていない歴史の現実を、地域の歴史という観点から眺めることが出来ました。これこそ大学での学びの真骨頂ではないかと思います。次年度も引き続き、フィールドワークを続けます。

学長から一言:知らないことばっかり!!!面白いですね~!!!アクティブ・ラーニングとしては、この後学生によるまとめや、発表があるのでしょうねッ!学生の皆さん、がんばって!!!